TURN6「黒の旋律:後編」

 澄みきったその声に、目の前の状況を忘れた。
 ――息すらできないほどに心を震わせる音は、フレアロットの後方……篭手を掲げたアルケミストが紡ぐ声。いつもと変わらぬ無表情のまま、……いや、柘榴色の目に強い光をたたえながら、ひたむきに前を見据える、シェズの詠唱だった。
(……綺麗、だ――。すごく……)
 どこまでも真摯な、飾らない響き。
 その発音は普段使われる言語とは違う、知らない異国の言葉のようだ。
 意味は分からないが、やわらかい発音は竪琴を爪弾くように緑の樹海へ溶けてゆく。それだけで、この場がきらきらとした息吹の煌めきに彩られていくように感じる。
「……っ、ちっ……!!」
 その旋律に聞き入っていたフレアロットの耳に、焦りを含んだ舌打ちが飛び込んだ。はっと現実に引き戻されて、声の方向へ視線をめぐらせる。
 斜め前方で、口の端の血を親指の腹で拭いながら、ヘヴンリィが身を起こすのが見えた。色白の細面と白絹のエンジェルローブという儚げな色味のなかで、赤い血が鮮明に映える。
 吹っ飛ばされたのだろうか、少しよろめいている。その姿はフレアロットの目にひどく痛々しく映った。
 弱ったものから狙うのは、魔物の勘か、それとも捕食の本能か。狙いを定めた一体のカマキリが、大ナタのような鎌をヘヴンリィへ振りおろした。
「……へ、ヘヴンリィっ!!」
 叫んで地を蹴るものの、フレアロットの位置では到底間に合う距離じゃない。
 気がそれていた自分を全力で呪いながら迫り来る惨劇に絶望したそのとき、すぱり、と紙でも切るかのようにその凶器……鎌が真中から一刀両断された。
 駆ける影青の髪と、斬り上げた黒い大剣。
「ほんとうに、斬れすぎて怖いな。こいつは」
 敵を見据えたまま、余裕をにじませた笑みで言ったリザンがヘヴンリィの前に立っていた。返す刃で、カマキリのやわらかそうな腹部をなぎ払う。
 ―-ダブルアタック。攻撃術に長けたソードマンだからこそ出来る、連続攻撃。
(……すごい)
 これまでの道中や、故郷の屋敷に訪れた旅人との腕試しで、フレアロットは見知っている。憧れている技なので、これを使える人には例外なく手合わせを頼んできた。
 が、リザンの剣技は、フレアロットが見てきたどれよりも一流だった。流れるような剣さばきは、次の一撃を的確に喰らわせる軌道を描いていて、全くの無駄がない。
(あれで、実戦経験がほとんどないだって? ……嘘だろ、リザンさん)
 黒い大剣がなぎ払ったカマキリの胴は、すっぱりと斜めに一刀両断された。支えを失った上体が、ずるりと傾いで緑の芝生に転がり、脚部は手を離した人形のように後方に倒れる。
 一体は無事に片付いたようだ。――しかし、まだだ。あと一体いる。
 ブレスが射抜いたのだろう、片方の鎌の付け根を三本の矢に貫かれたもう一体は、闇雲に残る一振りの鎌をふり回していた。
 その切っ先が狙ってか知らずか、詠唱を続けるシェズに振り下ろされる。負傷で興奮しているせいか、その鎌のスピードは予想よりもはるかに早かった。
(防御体制をとってからでは、シェズを庇えない!)
 それ以上を考えるよりも先に、フレアロットはシェズの前へ飛び出していた。盾を構える余裕すらなく、全力で鎌に体当たりをかける。
 がしん、と右腕のガントレットと肩当てが鎌を遮った。ひどい衝撃と圧迫感に、一瞬目がくらむ。
 肩当てにぶちあたった鎌の切っ先は、勢いの行き場を失って装甲の丸みを滑り……フレアロットの首筋を切り裂いた。皮膚が切れる鮮烈な痛みと、ぱあっと血が舞う感触。
「……っ……!!」
 激痛に視界が真っ白に塗りつぶされる。
 着地を考えていなかった体当たりの体制から、痛みに止まった思考で上手く立つことは不可能だった。軌道を逸らした鎌の方向と共に、フレアロットの身体がとさりとその場に崩れ落ちる。
 そのとき――
 背後から、ちりちりと火の粉で肌を焼かれるような気配――術式の魔力が膨れ上がる。倒れ伏したフレアロットの背筋を、ぞわりと冷たい戦慄がかけぬけた。
「天に舞え、スヴァローグ」
 シェズのかすかな、しかし願うような呟きに、身の丈ほどもある巨大な炎の玉が篭手の前に揺らめいてはじける。
 ごう、という音を立てて燃えさかる紅蓮の炎がカマキリの胴にぶち当たり、這うように巨体を覆い尽くす。焦げる匂いすら残さず、カマキリは一瞬にして灰燼と化した。
 芝生に頬をあずけたまま、その光景を見上げて呆然とするフレアロット。その目の前で、ぱちり、とひとつ可憐な火の粉がはじけて消えた。
 攻撃術式は恐ろしい力をもつと聞いてはきたが……まさか、これほどのものとは。
(すごいな。剣技なんかじゃ、到底かなわない破壊力だ……)
「…………どうして」
 呟くような、けれどさっきの旋律と同じ澄んだ声に、フレアロットは我に返った。痛みににじむ視界をゆっくりとそのほうへ向けると、自分を見下ろすシェズがいた。
 とても悲しそうな、柘榴色の瞳。
(……「どうして」、って……それはむしろ、僕が聞きたい……)
 僕がメンバーの君をかばうのは、パラディンとして当然のことなのに。
 なぜ、君はそんな瞳をしてるんだ?
「くそっ、馬鹿やってんじゃねえ!この突撃お嬢様!!」
「……馬鹿じゃないし、お嬢様は余計だ」
「ああ、じゃあ阿呆ならいいか?黙ってねーと傷開くだろーが」
 駆け寄ってきたヘヴンリィの怒鳴り声に反論しながら、もういちど見上げたシェズはいつもの無表情。
(今朝はともかく、いつもその表情で僕を無視してたのに……なぜ、あんな瞳をしたんだろう)
 漆黒の髪からのぞく横顔は、フレアロットの疑問を消してくれなかった。